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表情もさまざま、白洲正子も度々訪れた鵜川四十八体石仏群〜滋賀県カメラ散歩

鵜川四十八体石仏群

大津市側から北上し、「近江の厳島神社」こと白鬚神社を500メートルほど過ぎて、旧道を左へと入ったところに、地元の人たちが管理する共同墓地があります。その一角に安置されているのが、「鵜川四十八体石仏群」です。

観光スポットでもなんでもなく、共同墓地の一部なので柵(さく)などもありません。もちろん、無料です。

白洲正子と鵜川四十八体石仏群

鵜川四十八体石仏群は、白洲正子(1910〜98)の『近江山河抄』に……

そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。私が行ったときは、ひっそりとした山道が、落ち椿埋まり、さむざむとした風景に華を添えていた。入口には例によって、古墳の石室があり、苔むした山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観というよりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが、野天であるのに保存はよく、長年の風雪にいい味わいになっている。

……と紹介されています。

『近江山河抄』は1983年に初版がでました。鵜川四十八体石仏群とその周囲は40年あまりたっても大きくは様子が変わっていないようです。

「入口には例によって、古墳の石室があり」とあるのは、琵琶湖西岸の神社などの多くは古墳地帯にあり、古墳があったところに神社などがそのまま建てられているのを指しています。

白洲は昭和から平成にかけての随筆家です。自らも能をよくしたこともあって古美術・古典文学について詳しく、多くの紀行文を残しました。滋賀県については、タイトルもそのままの『近江山河抄』のほか、『かくれ里』の中でも取り上げました。どちらも白洲の随筆の代表作とされています。

亡くなってからだけでも四半世紀もたつのですが、一部に根強い人気があるようです。旅行会社などは今でも「白洲正子の『かくれ里』を巡る」「白洲正子の『十一面観音巡礼』の世界を行く~美濃・近江」といったツアーを企画・販売しています。

今残る阿弥陀如来は33体

その名前の通り、かつてはここに48体の阿弥陀如来が安置されていたようです。

ただ、江戸時代初めに慈眼堂(じげんどう、大津市坂本)に13体が移されました。この13体は今もそのまま残っています。白洲のいう「日吉大社の墓所」とはこの慈眼堂です。天台宗の僧で、江戸幕府宗教行政の中心人物だった天海の廟所(びょうしょ)です。

また、1987年に2体が盗難に遭い、今も見つかっていません。結局、現在鵜川に残っているのは33体です。元よりも少なくなったとはいえ、高さ1.6メートルもの石仏が並ぶ様子は、白洲もいったように「壮観」です。

鵜川四十八体石仏群

だれが作ったのか・いつ作ったのかは不明

「近江の守護大名だった六角義賢が母の菩提(ぼだい)を弔うために1533年に建立した」との伝承があるようです。

しかし、その一方で船で近くを通った公家の1492年の日記に「次に四十八体の石の阿弥陀仏あり」とでています。また、地元の1436年の記録でもこの鵜川四十八体石仏群と考えられる言葉が確認されています。

結局のところ、よくわかないままなのです。

また、48体あるのは、阿弥陀如来がまだ悟りを開く前の法蔵菩薩だったときに立てた「48種の誓願」にちなんでいます。

ご覧いただいたように、33体も残る阿弥陀如来の表情はさまざまで、私のお気に入りの被写体です。

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