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穴太衆積みの石垣の街・坂本を巡る〜滋賀県カメラ散歩

滋賀県大津市坂本・日吉三橋

坂本は、織田信長の時代から石垣づくりで知られた穴太衆(あのうしゅう)の地元です。通りの左右の石垣も彼らが得意とした野面積みで作られており、情緒のある町並みを見せています。単に外の通りを歩いているだけでも、歴史が感じられます。それでも、せっかくですので、訪れた際には歴史を実感できるスポットも訪問してみましょう。

安土城築町でも活躍した穴太衆がつくった石垣

穴太衆は、坂本の南隣の穴太(あのう)に起源を持つ石工集団です。比叡山延暦寺の石垣や石塔などの石に関する工事全般を請け負ったことで高い技術を持つようになりました。

これを見込まれ、戦国時代には各地の城郭建設にも招かれました。織田信長の安土城築城にも参加したことがわかっています。

彼らが作る「穴太衆積み」は「野面積み」とよく混同されます。

「野面積み」とは、自然石をそのまま、あるいは割っただけで加工らしい加工はせずに使う石垣の工法です。見た目は、乱雑ですが堅牢さで知られています。

一方、穴太衆の作った石垣が穴太衆積みです。穴太衆はほかの工法もできますが、最も得意にしたのが野面積みで、ほとんど穴太衆の代名詞のようになっています。そのため、「野面積み」を「穴太衆積み」と呼んでしまう人が後を絶たないのです。

坂本で見られる石垣は、「穴太衆積み」と呼んでも、「野面積み」と呼んでも間違いではありません。しかし、正確を期するのならば「穴太衆が作った野面積みの石垣」です。

現代では、坂本にある粟田建設だけが穴太衆の技術を受け継いでいます。

お城並みの石垣で囲まれた滋賀院

今の延暦寺は宗教行事関連は比叡山の山上、寺務関連はふもとの坂本と分かれています。その寺務部門を取り仕切る本坊が置かれているのが滋賀院です。

江戸時代末までは天台宗のトップである天台座主の居所でもありました。天台座主は法親王(出家した皇族)が務めたため、滋賀院も皇族とのつながりを示して「滋賀院門跡」とも呼ばれます。

もともと京都・北白川にあった法勝寺(ほっしょうじ)を、天台宗の高僧で江戸幕府の宗教行政の中心人物でもあった天海僧正が1615年に移築して創建されました。坂本における天台宗の中心であるだけに、坂本の中でもひときわ大規模な穴太積みの石垣で囲まれています。「ほとんど城郭」との評判も聞かれるぐらいです。

滋賀院でもうひとつの見どころが、客殿にある庭園です。坂本にある50もの里坊(さとぼう、延暦寺の僧の隠居所)の多くには、比叡山からの清流を生かした庭園が作られています。しかし、ほとんどが非公開です。滋賀院は日本庭園が鑑賞できる数少ない場所です。

全国3,800の日吉神社の総社、日吉大社

日吉大社は、全国に約3,800余りもある日吉神社・日枝神社の総本社です。境内は大きくは東本宮と西本宮に分かれています。どちらも、水の澄んだ大宮川が流れ、深い森の中に、数多くの建築物が立ち並んでいます。

延暦寺と一体化して勢力を拡大

日本最古の歴史書『古事記』によると、今の境内中心部の西にある山、牛尾山に東本宮大山咋神(おおやまぐいのかみ)が祭られました。これが第10代崇神天皇の時代のこととされるので、神話の世界の話です。これが東本宮に発展したとされます。

一方、西本宮は7世紀に天智天皇が大和の三輪山の大山咋神(おおやまぐいのかみ)を勧請したのが始まりです。

このように、起源の違う2つの神社が一体化して、日吉大社となっています。

比叡山に延暦寺を開山した最澄は、これら日吉大社の神々を延暦寺の守護神としました。以後、延暦寺が発展するのと歩みを同じくして、日吉大社も権威を増しました。ただ、延暦寺と一体化したのが裏目に出る場合もあり、織田信長の延暦寺焼き打ちでは、日吉大社の建物もすべて焼き払われました。

ただ、豊臣秀吉や徳川家康は一転して日吉大社の復興に尽力しました。

日本最古の構造化された石橋「日吉三橋」

もし、坂本が穴太衆の故郷であるのを意識しての訪問ならば、大宮橋・走井橋・二宮橋の「日吉三橋」は見落とさないようにしましょう。西本宮側にあります。

信長の次の天下人、豊臣秀吉は一転して、日吉大社と延暦寺に帰依し、焼き払われた建物などを復興しました。大宮川にも日吉三橋がかけられました。

当初は木の橋だったものが、1669年に石で作り替えられました。いずれも木造のときの構造そのままに再現されたとされています。たとえば、大宮橋は精緻(せいち)な手すりと橋げたを持っていて、工事に当たった穴太衆の技術の高さを示しています。3つの橋とも「しっかりした構造を持った石橋としては日本最古」とされ、重要文化財です。

日光東照宮の元になった日吉東照宮

秀吉の次の天下人、徳川家康も日吉大社と延暦寺に帰依しました。また、延暦寺の側でも、天海僧正を筆頭に積極的に徳川幕府に参加します。激しく対立した信長時代とは正反対です。

数え年で108歳まで生きた天海僧正は、家康・秀忠・家光の三代に渡って、徳川幕府の宗教政策の中心人物になります。日光東照宮を造営し、家康を静岡の久能山から改葬したのも天海僧正でした。また、江戸に徳川家の菩提寺(ぼだいじ)・寛永寺も開きました。

実は、坂本にも東照宮があり、「日吉東照宮」といいます。かつては延暦寺の末寺でしたが、明治の神仏分離で日吉大社の末社となりました。本殿は拝殿と石の間でつながった「権現造り」です。これは日光東照宮と同じですが、日光東照宮の本殿が権現造りに改築される前に日吉のほうが先に権現造りになっており、「日光の本殿の原型になった」と考えられています。

また、権現とは「東照大権現」のことで、家康が死の1年後に朝廷から与えられた神号(神様としての名前)です。この神号を考えたのも天海僧正でした。

本殿(重要文化財)や唐門(重要文化財)など日吉東照宮の建物はいずれも朱を基調とした漆塗りで、極彩色の彫刻で装飾されています。

天台三宗の一つ、天台真盛宗の本山・西教寺

坂本の北の端あたりにある大寺が西教寺です。「坂本にある」といっても、延暦寺の里坊ではありません。それどころか、天台宗山門派(延暦寺)・天台宗寺門派(園城寺)とともに天台三宗とされる、天台真盛宗の大本山です。ほかの2つよりは少ないとはいえ、末寺は400以上あります。

起源はよくわかっていませんが、寺伝では聖徳太子により創建されたとしています。

延暦寺や日吉大社同様に、織田信長の焼き打ちに遭い、伽藍(がらん)は全焼しました。その直後に、坂本城を築城し城主ともなった明智光秀が復興に尽力したこともあって、寺内には光秀ゆかりの品がたくさん残されています。光秀ら明智一族の菩提寺(ぼだいじ)でもあります。

現存の本堂は紀州徳川家が寄進し、1739年に完成しました。客殿は伏見城の遺構と伝えられています。

石垣のある町並みは時代劇の格好のロケ地

野面積みの石垣があり、水の澄んでいる坂本は、時代劇などの格好のロケ地となっていて、この坂本で無数の映画やテレビが撮影されています。ざっと挙げるだけでもNHKの朝ドラの『あさが来た』『まんぷく』、同じくNHKの大河ドラマの『功名が辻』、映画の『るろうに剣心』などなどキリがありません。

歴史マニア、建築マニア、映画・テレビマニアのいずれもが楽しめるーーそんな光景やや文化遺産があるのが、坂本です。

参考

『山麓寺院のご案内 滋賀院門跡』(比叡山延暦寺)

・『日吉大社について』(日吉大社)

『西教寺について』(西教寺)

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