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かつて琵琶湖の港として栄えた大溝に「水辺景観」を訪ねて歩く〜滋賀県カメラ散歩

滋賀県高島市・大溝の風景

滋賀県高島市の一角・大溝はしばらく前まではあまり注目されることのない田舎町でした。しかし、2015年に国の「重要文化的景観」に指定されました。

この指定の際に、「大溝の水辺景観」と名前がついたことで、その存在に気がつく人も増えました。大溝のエリアとしての特徴がっきりしたのです。

とはいえ、評価されているのはあくまで、「景観」です。観光施設らしい施設はありません。しかし、歩いていると、大昔から琵琶湖水運の重要港として栄えた名残が、あちらこちらに見えてきます。

「大溝の水辺景観」は全国72の重要文化財的景観のうちのひとつ

「文化的景観」とは、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活または生業の理解のため欠くことのできないもの」を意味します。2004年の文化財保護法の一部改正で定義が定められました。

その中でも特に重要なものが「重要文化的景観」で、現在全国の72カ所が指定されています。

滋賀県では、以下の7カ所です。

・近江八幡の水郷(滋賀県近江八幡市)
・高島市海津・西浜・知内の水辺景観(滋賀県高島市)
・高島市針江・霜降の水辺景観(滋賀県高島市)
・大溝の水辺景観(滋賀県高島市)
・東草野の山村景観(滋賀県米原市)
・菅浦の湖岸集落景観(滋賀県長浜市)
・伊庭内湖の農村景観(滋賀県東近江市)

江戸時代の街作りがわかる大溝の通り

大溝は2015年に指定されました。県内では「近江八幡の水郷」、「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」、「高島市針江・霜降の水辺景観」に次ぐ4番目です。

もともと、古い街の雰囲気を残す街でした。「大規模な開発や産業化から取り残された」というマイナスの要素がそうなった理由でしょう。

ただ、単なる田舎町ではありません。江戸時代には大溝藩の藩庁が置かれました。藩主の分部家はわずか2万石の大名でしたが、周囲に大きな街もなく、独立した“行政単位”として機能したようです。

大溝藩の石高では城は持たず、陣屋を構えて行政の中心としました。現在、その跡地には分部家を祭る分部神社の小さな社があります。

江戸時代の名残はほかには、「町割り水路」「大溝陣屋総門」「大溝港」などとして姿をとどめています。

「町割り水路」とは通りの中央を流れるごく小さな川です。明治になるまで、日本の通りでは「側溝」ではなく、溝は中央を流れていました。その古い形を継承しています。

総門は、大溝藩時代からの唯一の建物として残ってはいたのですが、民家として使われていた上に傷みがひどい状態でした。2024年、江戸時代の姿に復元して建て替えられました。

「大溝陣屋総門」は大溝陣屋の正門にあたり、この内側を武家屋敷のエリア、外側を町人が住むエリアとして分けていました。

ほかにも西門・南門なども設けられていたようで、武家屋敷のエリアの周囲は塀(へい)や堀で囲んでいたと考えられています。

大溝は、「琵琶湖水運」では湖西の中心地となりました。「琵琶湖水運」は単に近江の中だけではなく、「船で東北の日本海側から若狭湾」「そこから陸路で海津などの琵琶湖北部」「再び船で大津や坂本」と経由して、京や大坂と至る大動脈です。

大溝港には今は数隻のボートや漁船がつながれているだけです。しかし、位置は昔から変わっていません。

また、造り酒屋などは古い屋敷をそのまま使っています。なかには、外観を残し、パン屋や飲食店などになっているものもあり、街の古い歴史を感じさせてくれます。

なかでも珍しいのは、古式水道でしょう。取水地からの高低差を利用し、水が噴き出すように工夫されています。大溝の集落のなかで見られるのは、「立ち上がり」と呼ばれる水の噴き出し部分です。

明智光秀ゆかりの大溝城、天守台が今も残る

江戸時代より先、戦国期には大溝城が築城されました。

織田信長は安土城を自分の居城とし、明智光秀には坂本城、羽柴秀吉(豊臣秀吉)には長浜城を築かせました。

そして、おいの織田信澄(津田信澄)に命じて築かせ、城主としたのが大溝城です。安土・長浜・坂本、そして大溝の城で琵琶湖全体の押さえとし、水運も支配したのです。

城や城下町の縄張り(配置の設計)をしたのは、信澄の正室の父である光秀でした。

光秀による本能寺の変による混乱のなか、光秀とつながりの深かった信澄は自害に追い込まれました。その後も、城主を変えながら城はしばらく残ります。しかし、江戸時代に入ってすぐに廃城となり、礎石や建物の主なものは甲賀郡水口の岡山城へと移されました。

しかし、現在でも天守台は残っています。

石をほとんど加工せずに使う野面積みで、戦国期にはよく見られた石垣です。また、天守台に隣接する乙女ケ池は、もともとは琵琶湖の自然の入り江でしたが、城の堀としての役割を果たしました。

古代には2度も大乱の激戦地になった

この乙女ケ池を含むこの一帯は、古代から中世にかけては、「勝野の鬼江」や「香取の海」と呼ばれていました。万葉集にも……

大船の香取の海に碇おろし如何なる人か物思はざらむ

いづくにか舟乗りしけむ高島の 香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟

……などの歌が収録されています。

天智天皇の弟の大海人皇子と子の大友皇子の間で争われ、古代最大の内乱となった「壬申の乱」では主な戦場のひとつとなりました(三尾城の戦い)。

672年、大海人皇子の軍勢はこの乙女が池やその背後にあった三尾城で大友皇子を破りました。そのまま南下し、瀬田川へと進みます。そこでも大海人皇子側が大勝し、大友皇子が拠点とする近江大津宮は陥落、大友皇子は自害しました。そして、大海人皇子は即位して天武天皇となったのです。

さらにその100年ほど後には、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱でも再び戦場になりました。恵美押勝は称号で、名を藤原仲麻呂といいます。奈良後期の公卿で、朝廷の最大の権力者でした。

ところが、孝謙上皇が僧・道鏡を寵愛(ちょうあい)したことから雲行きが怪しくなります。この2人とは対立し、とうとう挙兵に踏み切りました。しかし、次々に先手を打たれ、最後は勝野の鬼江から湖上に逃げようとしたところを捕えられ、浜で首を切られます。764年のことでした。

「乙女ケ池」と呼ばれるようになったのは、1960年代のことのようです。それよりさらに前の1930年ごろから淡水真珠の養殖場として利用されていたのにちなんでいます。

ゆっくり歩いて、景観を味わい、歴史を思う街

大溝に限りません。琵琶湖西岸には、大きな街はなく、特筆するような観光スポットもほとんどありません。その半面、豊かな自然が残り、水泳・キャンプ・ハイキング・釣りなどのレジャー地になっています。

大溝でそれらのレジャーを象徴するのは、JR高島駅前にあるガリバー像でしょう。比良山地を少し登ったところにレクリエーション施設「ガリバー青少年旅行村」があり、高島駅が最寄り駅です。ガリバー像は旅行村のシンボルで、高さは7メートルあります。

大溝は、もしかしたら、「観光地」とさえいえないかもしれません。少なくとも、記念撮影だけして、それで満足して帰るようなエリアではありません。

しかし、大溝は何度も歴史の舞台になり、「文化的景観」も残されています。もしかしたら、歴史マニア限定でおすすめするべきエリアかもしれません。

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