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司馬遼太郎が『街道をゆく』第1回で取り上げた北小松の漁港と集落〜滋賀県カメラ散歩

滋賀県大津市・北小松漁港

『街道をゆく』は、作家・司馬遼太郎は『週刊朝日』に連載した紀行文です。司馬が47歳だった1971年に始まり、亡くなる1996年まで続きました。

この間、司馬が訪ね歩いた「街道」は日本全国のみならず、中国・モンゴル・オランダ・アメリカなど海外にまで及び、その数72にもなるそうです。

その72のうちの最初が「湖西のみち」です。連載第1回の話の内容は、司馬の「近江からはじめましょう」のひとことで訪問先が決まったことや、大津から琵琶湖の西岸を車で北上する様子で始まります。そして、最初に立ち寄ったのは北小松漁港でした。つまり、数百か、もしかしたら1,000以上あるかも知れない訪問場所のうちの、1番目が北小松だったのです。

司馬は……

北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠のとびらまで紅殻が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった

……と北小松の様子を表現しています。

以来、50年以上たっています。漁師から後継者がいない話を聞き、司馬が将来を危ぶんだ漁港はなんとか残っています。集落を歩くと、かつて琵琶湖の漁で栄えた名残もいくらか見つかります。

その名残を探して回り、カメラに収めました。

司馬が訪れてから50年余り後、今の北小松

この湖西のあたりは、古代には朝鮮半島とのつながりが強い場所だったことは多くの歴史家が指摘している。

司馬も、「小松」の名前も元は「高麗津(こまつ)」だったのではないかと推測している。

漁港は明治には集落のなかに入り込むように作られていたという。司馬が訪れたときには、今の場所になっていた。司馬が漁師から話を聞いたのも、この場所だったと考えていいだろう。

JR湖西線が開通したのは1974年なので、司馬が訪れたときにはまだない。それよりも前このあたりを通っていたのは、私鉄の江若鉄道だった。しかし、湖西線建設が決まったために1969年に廃止されまた。

司馬が訪れた当時は車ぐらいしか交通手段がなかった。

琵琶湖の東を走る北陸線・琵琶湖線とは違い、路線の多くが湖岸近くを通っているのが湖西線の特徴だ。北小松の集落も車窓から眺められる。

漁船が小さいために纜(ともづな)も細く、ブイらしいブイも見当たらない。湖のために波が静かなのもこれらの理由だろう。

修理などのときには、船体を陸に上げる必要があるだろう。港の一角にはウインチがあった。

幅は40センチか50センチ、長さはその倍程度の錨(いかり)が突堤の一角にあった。さびついているのもあって、置かれているようにも、捨てられているようにも見える。

「全自動洗網機」というらしい。

長い間、「取れた魚を網から外すときのもの」と思っていた。その名前から、用途は明らかだ。

国道161号沿いにある志賀町漁業協同組合小松漁具倉庫。平成の大合併で大津市に吸収されるまでは、このあたりは滋賀郡志賀町といった。組合は今でも古い地名をそのままにしているわけだ。

この協同組合が持っている漁港はほかには、和邇漁港がある。

ただ、漁師の減少は今も頭の痛い問題のようだ。たまたま散歩していた地元の人に話を聞くと、「今、この漁港でエリ漁をしているのは3人しかいない。うち1人はよそからの通っている。北小松の人は2人だけになった」という。

漁協の維持もかつかつらしい。現在、滋賀県下の全部の漁協をまとめ、ひとつの漁協にする話が進んでいる。

琵琶湖で取れるのは、アユ、フナ、ホンモロコ、ビワマスなど。魚以外ではスジエビやセタシジミもある。これらを加工するお店は北小松の集落内だけでもいくつもある。

ただ、漁獲量は減り、司馬が訪問したときは琵琶湖全体で年間5,000トンぐらいだったのが、近年は1,000トンを下回っている。

そういったお店のひとつ。看板などが古びているので、「漁獲量減で商売が成り立たないのか」と心配した。しかし、そうではなく、近くで交通量の多い場所に移転している。

背後に見えるのは、スキー場のびわ湖バレイがある打見山(1,108メートル)だ。

そういえば、司馬遼太郎は1960年までは産経新聞社の記者だった。びわ湖バレイもかつては「サンケイバレイ」といい、1965年に産経新聞社が作った。

前を通るたびに、煙突が気になっていた。今は使われているかどうかわからないが、地図で確かめるとここもやはり佃煮(つくだに)屋さんだった。

北小松の集落へと入る旧道。これはそのまま「西近江路」となるはずだ。

坂本竜馬が福井から京都に戻る際にも通ったとされる。竜馬が京都の近江屋で暗殺されたのはその10日あまり後だった。2015年に発見された資料で確認されている。

竜馬といえば、司馬が『竜馬がゆく』を書き、世に出したようなものだ。その資料はまだ発見されていなかったとはいえ、『街道をゆく』でまったく触れていないのは少し不思議な気がする。

北小松の集落の湖岸沿い。水際にまで家が建てられている。波が静かな証拠だろう。

その集落の真ん前に設置された「エリ」。エリは琵琶湖を特徴づける風景のひとつで、今も志賀町漁業協同組合のエリア内だけで12ほどあるらしい。

司馬も目を留めた紅殻で、これは玄関部分。司馬は「厠のとびらまで紅殻が塗られて」と書いているが、残っているのは数軒しかないようだ。

すでに「ナショナル」のブランド名は使われなくなり、「パナソニック」に置き換わった。もうひとつ注目したいのは、「伊藤」の名字だ。

司馬は……

中世では近江の湖賊(水軍)という大勢力がこの琵琶湖をおさえていて、堅田がその一大根拠地であった。この小松は堅田に属し、伊藤姓の家がその水軍大将をしていた

……と書いている。北小松ならではの由緒のある名字らしい。

司馬は「村なかのこの溝は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに相違ないほどに石の面が摩耗してた」など、溝や石組みにもかなりの文字数を使っている。

冬鳥のキンクロハジロだろうか。1羽だけで漁港内を泳いでいた。

『街道をゆく』をゆく

司馬遼太郎といえば、私ら世代にすると、歴史小説家としても随筆家としても大巨人です。

あまりに司馬の書くものを真に受ける人が多く、「史学科の学生が、『司馬遼太郎が書いている』と卒論の資料に司馬の小説を挙げる」といった話まで聞こえてくるぐらいでした。

ただ、司馬が亡くなってから30年近くたちます。主に経費削減の影響だそうですが、歴史ドラマはほとんど作られなくなり、司馬の小説が原作として使われる機会も減りました。さらには、かつて『街道をゆく』を掲載した『週刊朝日』は昨年で休刊しました。

若い世代には「司馬遼太郎」といわれても、ピンとこない人も多いのではないでしょうか。

ただ、その一方で、NHKは2023年から司馬の足跡をたどる『新 街道をゆく』のシリーズを始めました。「司馬に代わる小説家や随筆家が、今に至るまででてこない。その結果だろう」と想像しています。

「推測ばかりで、歴史家から見るとかなり危うい」とは思います、一応は私も史学科の出身ですので。しかし、その視野の壮大さや強要の深さなどは今でも比類がないでしょう。「司馬が見た風景が残っているうちに、自分でも訪ねてみる。そして、司馬の思いを再確認する」も意味のある歩き方ではないでしょうか。

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