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中世の自治都市・堅田で古い町並みを撮る〜滋賀県カメラ散歩

滋賀県大津市堅田

琵琶湖の幅が狭くなっている部分に琵琶湖大橋がかかっています。その西岸が堅田です。

ここ住む人たちはかつて「堅田湖族」と呼ばれ、中世には琵琶湖ほぼ全域の漁業権と造船権を握りました。今でも琵琶湖の漁業の中心で、琵琶湖最大の漁港もあります。

また、古くからある一角は都市化からは取り残されました。そのため、今ならば昭和の香りのする町並みがかつかつ残っています。寺社なども古い歴史を伝えています。琵琶湖西岸最大の街歩きスポットといっていいでしょう。

中世には琵琶湖水運の経済力を背景にした自治都市

堅田は琵琶湖岸にあるほかのどのエリアとも異なる歴史を持っています。

琵琶湖全体の湖上権・漁業権・造船権を掌握した堅田湖族

近畿地方のやや北にあって南北に長い形の琵琶湖は、古代から水上交通に利用されてきました。いわゆる「琵琶湖水運」です。

名前からは琵琶湖周辺だけの話に思えるかもしれません。しかし、琵琶湖水運は「東北の日本海の港〜若狭湾〜琵琶湖北部〜坂本や大津〜京や大坂」という日本最大の動脈の一部でした。

堅田は平安時代には延暦寺の荘園となり、同時に京都の加茂御祖神社(下鴨神社)の御厨(みくりや、供祭用の食物を調達する領地)でもありました。

琵琶湖水運の物流の量が増えたのは鎌倉時代のようです。年貢などが京へと運ばれるようになったのです。延暦寺と加茂御祖神社の後ろ盾のもと、堅田の人たち(堅田湖族)は関所を設け、通行税を取るようになりました。この湖上の関所は「堅田関」とよばれます。

自治体制は地侍中心からやがて商人らも加わる

戦国時代にはさらに力をつけ、水軍といってもいいぐらいの軍事力も持ち、延暦寺とも対抗するようになりました。これに目をつけたのは戦国武将らで、堅田湖族を見方につけようとしました。織田信長もその一人です。

この戦国時代には、琵琶湖全体の湖上権(通行権)、漁業権、造船権を握っていました。そこから生み出される経済力を背景に、泉州の堺と同じような自治体制を敷いていたようです。

当時の堅田湖族は、商人や自営農漁民の全人衆(まとうどしゅう)と地侍の殿原衆(とのばらしゅう)で構成されていました。特に支配層として振る舞ったのは、殿原衆の刀禰(とね)家・居初(いそめ)家・小月家です。

この3家は町の鎮守社・伊豆神社の宮座(みやざ、祭礼を行う中心メンバー)となりました。やがて、この宮座には全人衆も加わり、殿原衆と全人衆の合議制で自治が維持されました。

ただ、豊臣秀吉の世になると、湖上権は大津に移りました。さらに、江戸時代の初めには、「西回り航路」が開拓されました。東北の日本海の港から、本州最西端の下関を回り、瀬戸内海に入るコースです。そのため、琵琶湖水運の重要性が下がりました。それでも琵琶湖水運は生き残りましたが、これに致命傷を与えたのは明治に入ってからの鉄道の発達です。

また、漁業についてもほかの琵琶湖沿岸の町が成長したり、堅田が江戸幕府から特権をはく奪されたりで、次第に地位が後退しました。

ただ、現在でも琵琶湖の漁業の中心で、堅田漁港は湖にある漁港とは思えない規模を保っています。

1,000年余り前にはすでにあった浮御堂

堅田だけではなく、琵琶湖全体のアイコンになっているのが浮御堂です。湖岸とは橋でつなぎ、湖面に浮かんでいるようなお堂の姿から、お堂だけではなく、お寺自体もそう呼ばれています。正式には海門山満月寺といい、現在は臨済宗大徳寺派です。

『琵琶湖八景』のひとつ『堅田落雁(かたたのらくがん)』に代表されるように、古くから絵画や和歌、短歌の題材になってきました。

最初に湖中にお堂が建てられたのは長徳年間(995〜999)で、比叡山の横川(よかわ)にいた源信(恵心僧都)によるものとされます。目的は、湖上の交通安全と衆生の救済でした。

交通の要衝であったのが裏目に出て、堅田はしばしば戦場となりました。浮御堂も何度も戦火に遭い、しばらく荒廃した後、江戸時代の半ばに再興されました。ただ、このお堂は1934年の室戸台風により倒壊、失われました。今のものはその3年後に橋げたの部分を鉄筋コンクリートにして再建されたものです。

もうひとつのアイコン・琵琶湖大橋

浮御堂同様に琵琶湖全体のアイコンともなっているのが琵琶湖大橋です。

堅田と対岸の守山市を結んでいます。また、琵琶湖はこの橋を境にして、北は「北湖(ほっこ)」、南は「南湖(なんこ)」と呼ばれています。

完成は1964年で、この時は往復2車線で全長は1,350メートルでした。交通量が増えたために、その30年後、並行して北にもう1本、50メートル長い橋が新築されました。その際、古い橋は守山から堅田への2車線、新しい橋はその逆の2車線となり、全部で4車線となりました。

琵琶湖大橋の建築の背景には、「交通の主体が水上から陸上になった。交通路だった琵琶湖も逆に交通の障害に変わった」があります。経済的発展から取り残された琵琶湖西岸への交通の便の改善が目的だったのです。

とはいえ、西岸にも交通の便がまったくなかったわけではありません。陸上交通では、1969年までは浜大津から今津まで若江鉄道がありました。水泳場やスキー場への客でにぎわったようです。

これに代わってJR湖西線が開通したのは1974年です。ただ、湖西線の一番の目的は、京阪神から北陸への短略(ショートカット)でした。琵琶湖の東を通る北陸本線よりも近道で、時間の短縮になるのです。「沿線住民のための鉄道ではなかった」は覚えておいていいでしょう。

1970年代以降は、「琵琶湖西縦貫道路」もどんどん北へと伸びました。

その結果、堅田の周辺地域には工場が進出したり、住宅開発も進んだりしました。しかし、中世からのエリアにはあまり手がつけられなかったようです。

京阪神から日帰り可能な街歩きスポット

近代になってからは繁栄しなかったのが幸いだったのか不幸だったのか、堅田の昔懐かしい町並みは残りました。歴史のある寺社だけはなく、おそらくは昭和に建てたままの店もいくつか残っています。

ふらふらっと歩けば、カメラを向けたくなる風景がいくつも見つかるでしょう。ノスタルジックを感じさせる町なのです。それが京都から電車で30分かからないところにあります。

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