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周囲から天守が見えない設計?
写真のこのアングルを見つけるのに、城の内堀に沿ってウロウロしました。
戦国期、城は当然、軍事拠点でした。しかし、時代が下るに従って、実戦上の意味を失っていきます。藩による支配の象徴になり、権威を周囲に見せつけるものになりました。
天守も石垣もいわばお飾り化します。ならば、周囲威圧するようにそびえ立っている方がよいはずです。しかし、彦根城天守は周囲からは見えないのです。
2つ可能性を考えてみたいところです。
彦根市立教育研究所編集の「わたしたちの彦根」という郷土読本には、「彦根城の植物」という一項があります。そこには「城山全体には、百数十種の樹木と三百種にあまる草がある。これらは築城のとき、城内のようすを外からみられないためと、食料・燃料・薬用など、城にたてこもるときの用意に、各地から移し植えたものである」とあります。
つまり、「彦根城は江戸時代に入ってから作られたが、軍事拠点としての意味を失っていなかった。わざと天守が見えないようにしている」可能性があります。
もうひとつの可能性は「明治以降、お城も公園化して緑を大事にするようになった。それで、周囲の木々も育つに任せた」です。
今、彦根城は桜の名所になっています。しかし、今1,200本あるとされる桜の木は1934年以降に植えられたものです。「時代とともに、彦根城の姿も変化している」と考えるべきでしょう。
江戸幕府にとっての彦根城の重要度
どちらが正解なのが、あるいは両方が合わさった理由なのかはわからないままにします。しかし、「軍事拠点としての意味を失っていなかかった。わざと天守が見えないようにしている」のほうが空想が膨らみます。
彦根には中山道と北陸道が通り、少し南に下ると東海道もあります。
東から来る敵には都であり天皇もいる京を守り、西国から江戸に攻め上る、幕府の敵も防がなければいけません。「お飾り」の城では済まないのです。
城主は井伊家が務め、譜代大名の筆頭格として扱われました。石高も順次加増され、ピークは30万石と譜代大名最大でした。16代藩主・井伊直弼が大老を務めたのも、皆さんよく知るところでしょう。
そのように交通の要衝にあり、地理的にも滋賀県の中央に近い彦根は県庁所在地にはなりませんでした。西の端にあり、藩時代には7万石しかなかった膳所(大津市)に県庁がおかれました。
ウソか本当か、これも検証が難しいものの、「直弼が桜田門外の変で倒れたのが影響した。以後、彦根藩は力を失い、エリアとしての彦根も県庁を置くどころでなかった」とは聞いたことがあります。
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