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元新聞記者がホームページ制作を始めたわけ〜ごあいさつに代えて

ストロボやLEDは暗くなくても必需品

はじめまして。ペンタ工房こと柳本学です。

「ホームページ制作を始めるに至った経緯」について説明させていただきます。長文になります。お許しください。

プロフィール_プロフィル

以下の文章の大半は前置きです。結論としてお伝えしたいのは……

ライターやカメラマンとしてWebメディアから受ける仕事もある。

しかし、「企画」から「コーディング」「コンテンツ(文章・写真)」「WordPressでの公開と保守」までといった、ホームページ制作に必要な一連の作業全部を自分の手でやりたい。

間にほかの業者を挟まずに、直接依頼主とつながりたい。そうしないと、本当に役に立つホームページは提供できない

……という気持ちです。

大阪市生まれ、東大阪市育ち

大阪市で生まれました。高度成長期が始まってそう間もないころの1961年です。小学校低学年のときに東大阪市に引っ越し、大学に進学するまで過ごしました。ですから、出身地を問われると、「東大阪」あるいは、「河内(かわち、大阪府東部)」と答えています。

その進学先は京都大学です。「就職を有利にするために大学に行く」という考え方になじめないのもあって、趣味・興味を優先して文学部を選びました。現役では落ち、次の年も受けて合格・入学しました。

大学卒業と同時に新聞記者になる

卒業後は全国紙の産経新聞社に入り、記者となりました。バブル経済が弾ける前の1986年のことです。1浪に加え、大学では1年留年したので24歳でした。

卒業して去ったはずの京都に戻る

京都大学時計台
京都大学の百周年時計台記念館。産経新聞社京都支局では大学担当もやった。ただし、半年間でしかない。当時は、この2階部分に大学の本部機能が置かれていた。総長室のほか大学記者クラブの部屋もあリ、そこには自分の机もあった。

新聞記者を選んだのは、「世の中の動きを密接に見たい」と「社会貢献できる職業だ」と思ったからです。

当時、新聞社の就職人気は高く、あこがれる学生も少なくありませんでした。「それに乗っかって、ミーハーしただけ」といえなくもありません。ただ、文学部での専攻は現代史学だったので、この面からは矛盾のない選択でした。

勤務地は京都でした。「5年間過ごした京都とも、就職でおさらばか」と思っていたのが、舞い戻ったのです。

入社式あいさつにがっかり

産経新聞社は「全国紙」とはいいながら、経営状態はよくなく、社会的な影響力もあまりありません。取材しながら、「この話題、うちよりも同業他社の朝日新聞社の記事になる方が、取材を受けた人にもメリットが大きいだろう」としばしば思ったぐらいです。

社としての勢いの違いは、入社式での経営トップのあいさつが象徴しています。

産経新聞社ではフジサンケイグループの鹿内春雄議長があいさつに立ち、「同じグループ内で、テレビ局は給料が高いが、新聞社は安い。父親が新聞社の社員で、テレビ局に入社したての娘がいると、娘のほうが給料が高いぐらいだ。この差をどうするか」といった話をしました。

一方、伝え聞いたところ、同じ春の朝日新聞社入社式では「朝日新聞は言うべきことを言うためならば、あえて死さえ選ぶ。そういった気概を持った新聞社です」と一柳(ひとつやなぎ)東一郎社長が高らかに宣言しました。

第二新卒で次の新聞社に移る

実は、朝日新聞社の入社試験は落ちて、滑り止めで入ったのが産経新聞社でした。「やっぱりこっちじゃダメだぞ」と思うのに、そうは時間はかかりません。

社員の身分と給料は手放さないまま、転職先を探す手も考えました。しかし、私の環境もよくわかっている、系列のテレビ局の人にいわれました。「もし、他社がだめだったら、そのまま勤め続けるのか? あんたは、そういうことができる人間やないやろ?」

結局、入社してほぼ1年後、次の仕事のあてもないまま退職しました。幸い、ほどなくして途中採用の試験があり、産経新聞社の退職から半年後に朝日新聞社に入社しました。今でいう「第二新卒」です。

新聞づくりの緻密さの違いにびっくり

横浜支局に配属になりました。

さすが、広告収入プラス購読収入では最大の新聞社です。前と比較すると、「自分一人で共稼ぎ分ぐらいの金額」といった給料でした。

それよりもびっくりしたのが新聞づくりの緻密(ちみつ)さ・厳密さです。

たとえば、産経新聞社では記事に間違いがあってもよほど大きなものでない限り、そのままやり過ごします。一方、朝日新聞社では必ず訂正記事が出ます。また、訂正を出すとその原因になった記者の傷として残りました。「今までに、○回訂正を出した」といった具合です。

幸運にも恵まれました。支局のデスクの1人は、「調査報道の第一人者」「社会部三羽ガラスのうちの1人」といわれた敏腕記者でした。

「裁判の証拠になるんだから、取材のノートはあとからだれが見てもわかるようにしっかりと書いておけ」「おれたちの記事は歴史の資料になる。だから、いい加減な記事は書いてはいけない」

前の新聞社では聞いたことのない言葉で日々指導を受けました。

東京への応援出張で大きな取材現場も経験

当時は社としても新聞業界全体としても売り上げが伸びていて、取材にかかる費用も惜しむ様子はありませんでした。特に朝日新聞社ともなると大事件の取材には大量に人員をつぎ込みました。東京本社・大阪本社などで人手が足りなくなると、地方支局からも応援をかき集めます。

そうやって、最末端ながら私も参加した取材には、「リクルート事件」「昭和天皇死去」などがあります。本来ならば、行けるとしてもまだまだ先だった東京本社に駆り出され、社会部の遊軍席で雑用もしました。プロ野球でいえば、二軍の選手が一軍ベンチの真ん中に座っているようなものです。

こうやって、取材の大舞台も多少は経験するようになると、仕事に対する考え方で変化した部分がありました。取材現場でカメラマンと一緒に仕事をする機会があったのも一因でしょう。「ニュースは文字で伝えるよりも、写真のほうが上じゃないか? 伝わりやすいんじゃないか?」

人事の希望を出してカメラマンに転向

インタビュー取材用機材
新聞社時代はニコンを使っていたが、今は富士フイルムだ。富士フイルムはデジカメになっても、フィルム時代に一般的だったダイヤル類を残している。古いカメラマンの私にはこれが使いやすい。

人事異動の希望の用紙には「写真部」と書くようになりました。

支局勤務時代に「サンゴ事件」が発生

といっても、実現するとは思っていません。当時、入社試験は記者とカメラマンでは別枠でした。転勤というよりも、配置転換に近い異動です。「せっかく、希望を出すようになっているのに、白紙で出すこともなかろう」ぐらいのつもりです。

そこへ、東京本社写真部が「サンゴ事件」を起こしました。沖縄・西表島のサンゴにでかでかと「K・Y」の文字が刻まれているのを、特大の写真付きで「ダイバーが落書きした」と非難する記事を出したのです。地元からは「取材に来る直前まで、そんな傷はなかった」とのクレームが付きました。写真部や社の説明は二転三転し、結局、「潜水撮影したカメラマンが自作自演した。水中ストロボの柄でサンゴを削った」と社も認めて決着しました。

「『新聞に書いてあるから本当だ』といわれていたのが、『新聞に書いてあるのも疑ったほうがいい。ウソを書いている可能性もある』となるターニングポイントだった」といっていい大不祥事です。

サンゴ事件の影響で東京本社写真部へ

私が出していた人事の希望が動きました。

写真部としたら、「採用試験をしてもだれも受けに来ないかもしれない」「この先、どうカメラマンを養成したらいいか、わからない」と弱り果てていました。そのせいで、「すでに社内で記者として働いているのに、こんな逆境の写真部に行きたいというやつがいる」と飛びついたのです。

事件から約1年後の1990年春、東京本社写真部に異動し、カメラマンに転向しました。辞令が出たのは、横浜支局の次の宇都宮支局にいたときでした。宇都宮での勤務はたった7カ月で、転勤の頻繁な新聞社としても異例の短さです。

阪神・淡路大震災やオウム真理教本部捜査などを取材

東京本社写真部から西部本社福岡本部写真部、さらに名古屋本社写真部で勤務しました。

以下、カメラマンとして経験した仕事の一部を列挙しておきます。

・インタビュー・ポートレート撮影

神戸市灘区六甲新道(神戸市提供)
神戸市灘区六甲新道(写真提供:神戸市)。

松田聖子(歌手)
沢口靖子(女優)
長谷川町子(漫画家)
中内功(ダイエー創業者)
稲盛和夫(京セラ創業者)
三浦知良(サッカー選手)
根本陸夫(ダイエーホークス監督)
S.W.ホーキング(理論物理学者)

・取材参加

阪神・淡路大震災(神戸)
三豊(サンプン)百貨店崩壊事故(ソウル)
オウム真理教本部捜査(上九一色村)
カレン族難民キャンプ(タイ)
村山富市・金泳三 日韓首脳会談(ソウル)
香港の中国返還(香港)
カラコルム山脈K2登山隊同行(パキスタン)

阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日当時、福岡本部に勤務していました。当日朝、現像車(フィルム現像などができるよう、キャンピングカーを改造して暗室を設置した車)で出発しました。

瀬戸内海沿いを行きましたが、神戸に近づくと、すんなりと通れる道はありません。最後は六甲山の裏に回り、神戸市中心部にある神戸支局に着いたのは夜8時ごろでした。福岡からは約12時間かかったと覚えています。

以後、頭にはヘルメット、足には釘を踏み抜かないように底に鉄板の入った安全靴で、瓦礫(がれき)だらけの街を撮って回りました。当然、宿泊施設も大被害を受けていて、泊まるところもありません。

しばらくの間は、毛布を3枚程度もらい、支局の会議室でごろ寝でした。非常用電源で支局としての機能をかつかつ維持してる状態なので、真冬なのに暖房も入れていません。食べ物は、会社が借り切った釣り船が大阪湾を横切って運んできたコンビニ弁当の類ばかりです。

ただ、「自分は住んでいるところ(福岡)に帰れば、今までどおりの生活が待っている。目の前にいる人たちとは違って、生活の場が破壊されたわけではない」と不満がいえるわけがありません。

オウム真理教本部捜査では、第7サティアン前などでの張り番要員でした。

「第7サティアン」は化学工場と見られており、猛毒のサリンもこの中で作られた疑いがありました。報道陣に向かってサリンがばらまかれる可能性もないわけではありません。どう考えても、いざというときには間に合いませんが、手元には常にガスマスクを置いていました。

この時代に成人していた人たちはニュースなどを見て覚えているでしょう。目の前にはヘッドギアをつけた信者がおり、中に入っていく捜査員はカナリアの入った鳥かごを持っていました。繊細なカナリアは毒ガスにも弱く、それが倒れることで検知器の代わりになるのです。

振り返ってみると、「新聞社がまだしも新聞社らしかった最後の時代だった」という気がします。「その時代を経験したんだから、ラッキーだった」とも思います。

「読者のことを考えて新聞を作っているやつなんぞ、いない」

もともと入りたかった方の新聞社に入り直し、さらに希望通りの異動でカメラマンになりました。ただ、充実感があったのもこのあたりまでだった気がします。

新聞が新聞ではなくなり始めた

名古屋鉄道
広告主がどれだけ大金を出していようと、内容は広告主の意向とは無縁なのが本来の新聞記事だ。意向が反映するようでは、それは「新聞記事」ではなく、「広告」という。(写真:PhotoAC)

名古屋本社では部長・デスクといった上司に恵まれました。カラコルム山脈K2登山隊同行取材もこの時代です。

ただし、本格的な登山経験のない私は、標高8,611メートルのK2山頂のちょうど半分の4,300メートルで高山病を発症し、そこから引き返してしまいました。ただ、最初から「行けても最大、標高5,300メートルのベースキャンプまで」との話でした。

そういった通常では経験できない仕事も任せられていた一方、日々の仕事がつまらなくなっていました。

「読者に役に立つ情報を提供する」「世の中が少しでもよくなるのに寄与する仕事をする」のが新聞社だと思っていました。ほかの部の先輩記者の言葉ですが、「ぼくらは民主主義の発展のために働いている」が最も簡潔に新聞社の使命を表現していると思います。

しかし、私がかかわるものだけではなく、社会部や経済部などの部から出た記事も惰性で書いたものが増えました。周りでも、「記事を書く」ではなく、「紙面を埋める」といった表現が使われるようになったと覚えています。「内容や意義は二の次にして、とにかくページを作る」というニュアンスです。

さらには、大広告主である地元鉄道会社の機嫌を取るための連載にもかかわってしまいました。ジャーナリズムを標榜(ひょうぼう)し、本来は読者のためだけに記事を書いているはずの新聞社にしたら、読者に対する大きな裏切りです。

信頼する上司までもが割り切った見方をしていた

そんなある日、写真につけるキャプションを巡って、デスクとちょっとした言い合いになりました。といっても、互いに仕事に対する思い入れがあれば、日常的にあっていい程度のものです。

ただ、そのときは最後がいつもとは違いました。私が「この説明じゃあ、読者にわかりにくい」と反発したところ、デスクからは「今どき読者のことを考えて新聞を作っているやつなんぞ、いないんだよ!」の大声が返ってきました。

そのころには、信頼できるような上司・先輩は2人ぐらいしかいませんでした。そのうちの1人です。「がっかりした」といった気分にはなりませんでした。「『この人でさえ、もうそう思って仕事をしている』と確認した」といったところです。

そのデスクは、1年たつかどうかぐらいで早期退職し、大学の先生になりました。後に私自身も退職する際に大学を訪ね、話をしました。「新聞はもう終わりかもしれない。だけど、新聞に対する研究は必要だろ?」

40歳で新聞社を早期退職

次に勤務したのは京都支局です。これも人事異動の希望が通りました。

人事異動の希望が通り、再び京都で勤務する

納涼床
社も変わっての2度目の京都勤務では、先斗町や祇園などもよく飲みに行った。「もはやド新人ではない」もあったが、やはり給料の差も大きかったと思う。

京都は学生時代を過ごして愛着がありました。また、最初の新聞社での京都勤務は1年だけだったので、物足りなさもあったのです。よその都市で勤務して初めて、「やはり京都は見るべきもの、取材するべきものが多い」とも感じていました。

口の悪い後輩からは「会社を変えて、職種を変えて、今度は京都か」といわれました。確かに、「組織人の割には、思い通りに近く、自分の居場所を変えた」といえるでしょう。

京都支局での勤務とはいえ、京都支局員ではなく、大阪本社写真部京都駐在の身分でした。「所属は写真部だが、勤務地は京都」といった形です。私は30代後半になっていました。

若手記者を見て将来性のなさを痛感する

周りは、入社後せいぜい5年ぐらいまでの若手記者が大半です。支局は「その地域の取材拠点」であると同時に、「本社に上がって社会部員や経済部員、政治部員などになる前の教育の場」との役割もあるのです。

このときに痛感したのが、「次の世代の記者は質が落ちている。自分らの世代とは違う」でした。具体的に書く紙数はありませんが、カメラマンとして記者会見やインタビューに立ち会っても、「そんな浅い追求しかできないのか」「教養がろくにないから、質問もつまらない」「変に遠慮がちで、おどおどしている」と見えたのです。

これは私が思っただけではありません。記者部門のトップである編集局長に質問したことがあります。「優秀な人が入っているんですか?」。返事は「昔ほどの人気職種ではないから、もう入ってこない」

酒の席での与太話(よたばなし)ではありません。大阪本社内の会議での話です。

また、おそらくは東京本社での同様の話も聞こえてきました。ある支局デスクが会議でブチ切れたそうです。「『支局に送った新人がまともに育っていない。支局は何をやっているんだ』と本社は文句をいう。しかし、あんな連中を送ってこられても育てようがない。これからはそいつのデータに、採用したやつの名前を書いておけ。責任は採用したやつが取れ」

5年10年たてば、「あんな連中」が本社の各部の主力になります。「将来は暗い」と判断するしかありません。

新聞社からの退社がちらつき始める

新聞
新聞が置かれているのを見る機会はどんどん減っている。しかし、私の中では「遅くとも四半世紀も前には、ダメになるのが決まっていた。今日の新聞業界の衰退も当たり前すぎるとしか思えない。

「読者のことを考えて新聞を作っているやつなんぞ、いないんだよ!」に加え、将来も期待できない状態です。まだ海のものとも山のものともわからない面もありましたが、ネットも登場していました。「このままこの会社にいていいのか?」となるのは、あまりに当然でしょう。

京都支局にいるときにすでに、相手は社内・社外を問わず、「2、3年もしたら会社をやめようと思う」と公言していました。

ただ、そういった人間は私の周りではほかにいません。「どう将来がないねん?」と写真部の同僚にはバカにもされました。

しかし、新聞業界全体の売り上げはそのころがピークで、あとは一方通行の右肩下がりです。公称800万部だった朝日新聞社の発行部数も今は半分もありません。朝日に対する評判・評価もこれに沿っていると思えます。今となっては「間違っていたのは、その同僚の側だった」と断言していいでしょう。

私だけが早い時期に判断できたのには、ふたつ理由がある気がします。

①大学での専攻が現代史学だった。日本の新聞社の成り立ちや過去の悪行についてもほかの人より知っていて、「そんなかっこいいばかりの世界じゃないぞ」ともわかっていた。

➁特に朝日新聞社の場合、エリートコースとみなされることも多く、入社した連中の満足度も高い。自分自身と会社を一体視する連中が大半だった。だけど、私は第二新卒で入ったので、冷めた目で朝日新聞社も見ることができた。

➁を実感した経験があります。

2つ目の新聞社でしたから、私は朝日を「今度の社」と呼んでいました。横浜支局時代にそれを先輩に聞きとがめられました。「君はなんで、『うちの社』といわないの?」。この先輩には「会社なんぞ、なんかの縁があって身を置いているだけのところ」との考えはないのは間違いないでしょう。

「どういう紙面を作る」か経営陣も関心なし

この京都勤務時代に、出身大学の学生2人から、「新聞社受験の準備をする。その勉強会の指導をしてほしい」と頼まれました。しかし、「今から来るようなところではない」と断りました。自分自身が「ここはもうダメだ」と思っているのに、そこに入る手助けをするわけにはいきません。

直後に大阪本社写真部に転勤になり、そこで早期退職しました。24歳で最初の新聞社に入ってから16年後です。

「辞表を出した」と聞いて、よその勤務地にいる先輩2、3人が電話をくれました。そのうちの1人は、先の「信頼できるような上司・先輩は2人ぐらいしかいませんでした」のもう片方です。

先輩「写真部が嫌になったのならば、ほかの部署で残る方法もあるんだぞ。その気はないのか?」

私「今は経営陣も将来くる経営難の話しかしないじゃないですか。金の話ばっかりでしょ。もう、『どんな新聞を作る』なんていわないでしょ」

先輩「今はそうだなぁ」

写真部が嫌になったわけではなく、新聞社に期待が持てなくなったのを理解してもらって、話は終わりました。

これらは前世紀の末から2001年の話です。ここ2、3年、「新聞業界はあと○年で消滅しそう」とか「今の新聞記者はレベルが低い」などの話題をよく目にします。「今ごろ、いっているんか? そんなの、四半世紀前にはわかっていたやろ」ぐらいはいわせてください。

10年余の空白の後、再び書き始める

嫌になってやめた新聞社なので、しばらく書くのも撮るのもやめました。大げさにいえば、「筆を折った」です。

その後、株式投資をしたり、人材派遣で工場勤務をしたりしました。しかし、Web用の記事も書き始めました。「せっかくノウハウも経験もあるのだから」が理由です。退社からは10年以上たっていました。

このホームページ、だれの役に立っているの?

当たり前といえば当たり前ですが、新聞の世界とWebの世界は勝手が違いました。

記事の書き方も違います。新聞ならば、1,000文字余りも書けば大原稿です。一方、Web記事ならば3,000文字程度は当たり前にあります。私のこのホームページにしてもブログ記事の中には1万文字を超えるものもあります。

Webの世界がもっと違ったのは「雑多な素人が参入していて、大混乱」です。「歴史がないので、まだ整備されていない」といえなくもありません。しかし、参入障壁が低いのはWebの特徴としてこれからも変わらないでしょう。「雑多な素人が参入して」も、大きな変化はないと考えるしかありません。

実際にライター兼カメラマンとしてかかわった仕事でいうと……

・「編集者」と名乗っているが、文章や記事に知見があるわけではない。ただの連絡中継役なのに、この名称を与えられ、記事に滅茶苦茶な直しを入れる。
・業者に制作してもらったはずなのに、ホームページとしての基本中の基本も満たしていない。

……あたりが、その「雑多な素人が参入」がもたらした「大混乱」の例です。

大金をかけてもほとんど訪問者のないウエブサイトもある

コーディングの画面
依頼主の大半には、ホームページ制作業者がどのような作業をやっているかは、ブラックボックスだろう。だけども、ブラックボックスのままではいけない。チェックできるだけの知識は依頼主側でも持つ必要がある。これはほかのアウトソーシングと違いはない。私がライター兼カメラマンとして得た経験では、まともなホームページ制作業者の方が少ない。依頼主がわからないのをいいことに、上っ面だけを整えたホームページやオウンドメディアまったく珍しくない。

「基本中の基本も満たしていない」には、経営者は「カリスマ」として大手経済紙などに登場する企業のオウンドメディア(自社運営のウエブサイト)もありました。社員編集部員の給料や取材費などで、閉鎖するまでの4年間の運営費はおそらくは億になっていたはずです。しかし、私の方で思いつく限りのキーワードで検索したところ、ほとんどが「圏外」でした。「100位にも入っていない」ということです。訪問者もほとんどゼロのはずです。

私自身、ここに何本もの取材記事を納入しましたが、むなしさが募りました。取材に応じてくれた相手にも申し訳が立ちません。せっかく時間を割いてくれ、「自分たちのことを知ってくれる人が増える」と期待させているのに、その記事は人の目にほとんど触れないのですから。

私の直接の担当者にいっても、カエルの面(つら)にしょんべんでした。そう大きな企業でもなかったので、「カリスマ経営者」に直に連絡をとると、代わりに担当重役から返事が来ました。「お前は黙って原稿だけ書いていろ」

おそらくこの企業内や周辺で起きているのは……

・経営陣は、はやりに従ってオウンドメディアを持つと決定した。しかし、オウンドメディアについてほとんど知らない。
・編集部員も担当重役も変わりはない。自分がやっていることが何も生み出していないとバレるとまずいので、ひたすら口をつぐんでいる。外部からの指摘もシャットアウトした。
・ホームページ制作業者は作って納品したら終わりだった。あとはどうなろうと知らない。「依頼主はおかしいことをやっている」と気がついてもだんまりを決め込んだ。わざわざ「パンドラの箱」を開ける必要はない。

……あたりでしょう。

言い出すとキリがないので、簡単に済ませます。「原稿代行」の名目で、依頼主とライター、あるいは、ホームページ制作会社とライターの間を取り持つ業者も同様です。原稿(文章・写真)のプロではなく、単に中抜きするだけなのが珍しくないだけいます。

地元密着でないと責任のある仕事はできない

大津港
趣味はポタリング(自転車散歩)。琵琶湖の周辺をBSモールトン(後ろの緑色の自転車)で走っている。

「私自身の営業努力が足りなくて、まともな業者と出会えない」も間違ってはいないでしょう。

また、こういった業者の多くはリモートでやっています。東京あたりにいて、こちら関西へは発注だけします。取材に立ち会うこともめったにありません。ここも不満のあるところでした。

確かに、Zoomなどリモート用のツールが発展し、仕事の可能性も増えました。しかし、私自身はできるだけ直で会って、仕事の話をしたいと考えています。

東京あたりにいる業者では、関西への興味や知識はほとんどないのが普通です。たとえば、「おごと温泉」と書いた原稿を「雄琴温泉」と直された経験があります。「ソープランドのイメージが染み込んでしまった『雄琴温泉』から切り離すために、地元の人がどれだけの苦労をして『おごと温泉』を広めたか」など、彼らは知らないのです。

それを説明する文面を用意するときに強く思いました。「ほかの業種は知らない。だけども、ホームページを作る場合、地元に通じ、地元密着でないと、責任のあることはできない」

近代五種競技並みにHP関連は全部やる だから名前もペンタ工房

共同通信社 記者ハンドブック
ホームページ制作を一人で全部カバーするには、当然必要な知識も多い。

こうした経験から決意しました、「企画からコーディング、文章・写真の制作、WordPressでの公開と保守まで、すべてを自分の手で行うホームページ制作をやる」「ほかの業者を交えない」と。これが2年前でした。

こういった場合に最大のハードルになるのは、おそらくは「コンテンツ(文章・写真)」です。幸い、新聞社で記者もカメラマンも経験しています。フリーとなってからはWebでの仕事もこなしてきました。

「デザイン」については、カメラマンとしての仕事の延長の部分もあります。「こんな配置にしたらバランスがおかしい」といった感覚は、おそらくは駆け出しのデザイナーよりはマシでしょう。

「コーディング」も同様です。「極める」となるとまた話は別でしょうが、一定レベルに達するのに時間はかかりません。簡単に考えてもいけないのでしょうが、スクールなどでは「○カ月勉強すれば仕事が取れる」とアピールしています。極端なところは「3カ月」です。

「企画」については総合力の勝負です。むしろ、「デザインやコーディングがスタートの人が何ほどのことができるのか? コンテンツを理解している人こそやるべきだろう」ぐらいに考えています。

ペンタ工房の「ペンタ(penta)」とは「5つの」の意味です。近代五種競技も英語では「モダン ペンタスロン(modern pentathlon)」といいます。「企画も、コーディングも、コンテンツも、WordPressも全部やる。五種競技のトップ選手並みに、全部高いレベルでやってやる」と思ってつけた屋号が「ペンタ工房」です。

特に滋賀県・京都府、その周辺の中小企業・地域密着型のお店の皆さんのために、本当にお役に立つホームページを提供したいと考えています。

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